中沼了三杯
剣道の部

大会の目的
隠岐少年武道大会は、武道を通して子供たちに経験と自信を積ませ、地域内外の道場と交流することにより、離島隠岐を舞台とした双方の人間形成を目的とします。また本町の出身の幕末期の偉人「中沼了三」先生と本町名誉町民である「横地治男」氏の歴史的かつ日本及び世界的な武道振興並びに青少年教育への功績を大会開催によって顕彰することで広く周知し、隠岐の島町が生んだ偉人を称え、誇りを持てる地域環境づくりも目的としています。
剣道大会について
■剣道の部 中沼 了三杯
中沼了三杯・横地治男杯
主 催:
隠岐少年武道大会実行委員会
後 援:
隠岐の島町・隠岐の島町教育委員会
中沼了三先生について

隠岐の島町の偉人
中沼 了三
略歴
1816年5月生まれ 現隠岐の島町中村地区出身
代々の医者の家系に生まれ19歳の時に学問の為に京都へ。優れた大学者として名声を高める。その後、崇高な人柄と豊かな見識を以って京都にて私塾を開塾し若者への教育を行う。
その塾生には、薩摩の西郷従道(西郷隆盛の弟)や土佐の中岡慎太郎などがいた。
幕末から明治にかけては、尊王攘夷論が高まりつつある中で、勤皇思想や儒学学者として朝廷や明治政府から様々な役に任命される。【鳥羽伏見の戦いでは新政府軍参謀・孝明天皇と明治天皇の侍講(天皇の側に仕え学問を講義する役)・明治新政府の参与など】
孝明天皇の侍講時には、天皇の命により「学習院」を創設し同儒官となる。また同じく孝明帝の「十津川郷民は昔より正義に富み、皇室のためには生命財産をものともしないたのもしい人民である。なんじゆきてこれに文武の道を教え、他日の用に足るべく導くがよい。学校を文武館とせよ。」との。命により、現奈良県十津川村に「文武館」(今の十津川高校)を創設し大義名分を論じた。
1868年に隠岐の人々が勤皇思想・攘夷論から起こした独立政府運動の隠岐騒動では精神的支柱となっていた。
1896年京都にて逝去。